- Q1 いまの憲法には国民の権利ばかりが書かれています。国の基本を定めるのが憲法なら、共有すべき道徳や国に国と対して国民が負う義務も明記して当然ではありませんか?
- Q2 いまの憲法は、占領時代にアメリカに押しつけられた屈辱的なものです。独立国として、それを変えようというのは、当然ではないですか?
- 資料 憲法改正の経緯
Q1 いまの憲法には国民の権利ばかりが書かれています。国の基本を定めるのが憲法なら、共有すべき道徳や国に国と対して国民が負う義務も明記して当然ではありませんか?
【A】現在の世界の民主主義国家では、「憲法」は、市民の権利を侵害しないように国を縛る鎖ですから、国に対する権利ばかりが書かれているように見えるのは当然なのです。
解説
「憲法」は、人としてすべての人が生まれながらに持つ権利(基本的人権)を侵害しないように「国家を縛る鎖」です。国が国民を縛り義務を負わせる鎖ではありません。また、国家が考える「国民はこうあるべきだ」という姿を示すものでもありません。
自民党「日本国憲法改正草案」には、国家ではなく国民に憲法尊重義務を課したり(草案102条)、国家ではなく国民に個人情報の不当な収集を禁じたり(同19条の2)、家族は互いに助け合わなければならないと定めたり(同24条)、「憲法」の概念から見て、おかしなところがたくさんあります。
あなたは「人権を守ろう」ということばをうさんくさい、自分とは関係のないことのように感じますか。
しかし、すべての人は、どこに生まれようとも、生まれながらに、誰からも侵されることのない権利を持っています。それが「人権」です。
ただ、人が「人権」を意識するのは、自分の「人権」が危うくなったときです。あなたが、「自由に歌が歌える」「自由に言いたいことをネットで発信できる」ときには、あらためて「歌を歌う自由」「言いたいことを言う自由」を意識することはないでしょう。でも、「歌詞が国益に反する」、「発言が社会秩序を乱す」という理由で、国から歌うことを禁じられ、ネットに投稿しても直ぐに削除されるようになったらどうでしょう。あなたが本来持っている「歌う自由」「発言する自由」がくっきりと姿を現します。「人権」は白いキャンバスに白いクレヨンで描かれた絵のようなものです。背景が白ければ存在していることはわかりません。しかし、黒いインクがぶちまけられれば、クレヨンで描かれた絵はインクをはじいて、白く、くっきりと浮き上がってきます。
世界は、このような「人権」を、これを侵そうとする力から守るために一歩一歩進んできました。
日本の憲法もその流れの中で生まれ、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(憲法97条)である基本的人権が「過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたもの」(同)と宣言しています。
歴史を振り返ると、「人権」は、個人に対して大きな力を振るう国家によって傷つけられ、奪われてきました。そこで、18世紀から市民が団結して、国家に対して人権を認めさせ、これを侵害しないように求める闘いが続いてきました。フランスの人権宣言もアメリカの独立宣言や憲法もそのような歴史の中で生まれたものです。そして、第2次世界大戦後には、世界人権宣言や国際人権規約もつくられ、今では、基本的人権を認めこれを守ることは、国家の当然の義務と考えられています。
「憲法」は、国家が暴走して「人権」を侵害しないように、まず、大切な人権を列挙し、これを国家が傷つけたり奪ったりしてはいけないことを明らかにしています。そして、人権を守るためにどのような国の仕組みを作るかを定めています。つまり、「憲法」は、おおよそ、基本的人権を明らかにする部分と、この人権を守るための国の仕組みを定めた部分から成り立っています。
日本の憲法でも、第3章に基本的人権が列挙され、これに続いて、人権を守るための国の仕組みが定められています。まず、国家の力を、立法と行政と司法に分けて、この三つの力がそれぞれをチェックしお互いを抑制するように工夫もしています。そして、国民自身の代表者で構成され、国権の最高機関とされる国会が、国民の権利や義務を定める法律をつくる民主制を採用することにしています。ふつうは自分で自分の人権を傷つける政策をとったり法律をつくったりすることは考えられないので、このような仕組みにしておけば、国民の多数派の人権は侵害されないであろうし、議会での議論を通じてより多くの人の権利や利益が考慮されると期待しているのです。
しかし、国会における多数決で物事を決める民主制も、基本的人権を守るためには万全ではありません。少数派の人たちの人権が、多数決によって侵害される危険はいつもあるからです。「みんなで決めたルールなんだから、その内容がどんなものであっても、文句を言わずそれを守れ」というのでは、少数派や反対派の人たちの人権は簡単に傷つけられ奪われてしまいます。そこで、日本の憲法では、たとえ国会の多数決で決まった法律であっても、それが、誰かの基本的な人権を侵害するものであるときには、裁判所がその法律自体が憲法に反するかどうかを審査できると決めて、人権を守ろうとしているのです。
このように、「憲法」は、基本的人権を守るために国家の暴走を止める鎖の役割を持つものです。
しばしば日本の最古の憲法と紹介され、自民党改憲草案にもその一部が引用されている「十七条の憲法」は、8世紀に聖徳太子がつくったと伝えられ、貴族や官僚に道徳を説いたもので、今、議論される「憲法」とは、全く異なる意味をもったものなのです。
自民党改憲草案には、以下のQ&Aで説明するとおり、「憲法」の概念を誤って使っているとしか考えられない部分が多数あります。その結果、世界の眼から見れば、「日本はどこに行こうとしているのか」「国際人権規約を批准し民主主義国家として人権の優等生を任じてきたのに、日本は何を考えているのか」と不思議に思われる内容になっています。
自民党改憲草案は、前文に新たに「基本的人権の尊重」ということばをつけたしていますが、実際には、この草案は、「憲法」と名付けるのは難しいのではないでしょうか。
Q2 いまの憲法は、占領時代にアメリカに押しつけられた屈辱的なものです。独立国として、それを変えようというのは、当然ではないですか?
【A】国民がその意思で憲法を変えることは問題ではありません。
でも、今の憲法は、占領時代に誰かに押しつけられて、国民がいやいや受け入れたものではありません。
憲法の生い立ちについて「自虐的」になる必要は全くありませんし、それは改憲の理由にはなりません。
解説
1 憲法は押し付けられていやいや国民が受け入れたものではありません
日本国憲法は、1945年(昭和20年)8月に日本がポツダム宣言を受諾して戦争が終わった後、翌1946(昭和21)年11月3日、大日本帝国憲法(明治憲法)の改正として公布され、さらに1947(昭和22)年5月3日に施行されました。この憲法ができて、すでに65年以上がたっています。
日本は、第二次世界大戦で、アメリカ、イギリス、中国、ソビエト連邦(今のロシア)等世界の26か国から成る連合国軍と戦い、自国だけではなく他国にも多くの犠牲を出して敗れました。1945(昭和20)年8月にポツダム宣言を受諾し、9月には降伏文書に調印しましたが、その結果、日本の国を治める権限は連合国最高司令官の制限のもとに置かれることになりました。その後、1951(昭和26)年に連合国を構成したアメリカを中心とする国々と講和条約を結び、翌1952(昭和27)年4月に、沖縄、奄美、小笠原を除く地域では占領が解かれ、独立を回復しました。
いまの憲法がつくられたのは、主権が制限され独立を回復するまでの間であったのはそのとおりです。
また、日本国憲法の「素案」となるものが、敗戦の翌年2月に、連合国最高司令官であるマッカーサーから示され、その後の論議はこれを出発点としたのもそのとおりです。
いまの憲法は、アメリカに押しつけられたもの、屈辱的なものだから、独立した国家になった以上、憲法を改正するのが当然だという主張は、このような憲法ができる過程を問題にしています。
しかし、憲法のつくられた過程(別表)を見れば、その主張は、あまりに自虐的であることがよくわかります。
たしかに、憲法制定当時、戦前同様に「天皇主権」を信奉していた人々にとっては、「国民主権」や「基本的人権が最高の価値であること」を宣言する憲法は、天地がひっくり返るほど非常識に思われ、それでも「天皇陛下をお守りするために」受入れなければならない屈辱的なものだったでしょう。しかし、当時の多くの国民や学者、研究者にとっては、憲法は、敗戦後の日本の未来をつくる輝かしい出発点として、議論され受け入れられました。そうであったからこそ、その後何度も憲法改正が声高に叫ばれた時期があったものの、改憲論は主流とはなりえず、戦後65年の間に国民の間に定着したのです。
2 憲法は、議会でもさんざん議論して圧倒的多数の賛成で可決されました
では、憲法はどのようにできたのでしょうか。
マッカーサーが短期間でつくった草案を時の日本政府が押しつけられてそのままこの憲法となった、と思っている方があれば、それは間違いです。
1945(昭和20)年8月の敗戦以降、大日本帝国憲法はある程度自由主義化して修正せざるを得ないと政治家も考えていました。しかし、当時の日本の政治の中心にいた人々は「天皇主権」の戦前の考え方の呪縛から完全に脱することは難しく、政府の委員会が考えた改正案も民間から出た改正案の大部分も、「天皇主権」を前提に国民の権利を多少拡大するにとどまるものでした。
~松本案のスクープとマッカーサー草案~
そのような中で、翌1946(昭和21)年2月には、内閣に設置された憲法問題調査委員会で議論されていた松本烝治国務大臣の作成したいわゆる「松本案」が新聞にスクープされました。しかし、その内容があまりに保守的で大日本帝国憲法と変わらなかったために、マスコミからも国民からも非難が相次ぎました。
他方、マッカーサーの率いる総司令部には別の心配がありました。2月末にアメリカ以外の国も参加する連合国極東委員会が開催される予定で、日本の憲法改正問題が議題となる際に、民主化の遅れが指摘され、当時高まっていた天皇制廃止の国際的世論を押さえられなくなる可能性がありました。総司令部には、国際世論を押さえて天皇制を温存した統治を進めるためにも、世界が認める民主的な憲法改正案が日本政府の手で準備されつつあることを早く示そうとの配慮があったようです。しかし、スクープされた「松本案」では全く逆効果になります。そこで、総司令部は、既に調査していた先進的な民間の憲法研究会案をも消化して、急遽いわゆる「マッカーサー草案」を作成し、2月13日、極秘のうちに政府に手渡し改正を促しました。
たしかに、この「マッカーサー草案」の内容は、「国民主権」に基づき「基本的人権の尊重」をうたったいまの憲法の原型です。
総司令部は、「この草案の考えを受け入れるか否かは日本政府の判断である」と言いました。他方で、受け入れなければ、「国民に公表する」とも言いました。当時の国民が、古色蒼然とした「松本案」ではなく、「マッカーサー草案」の方針を歓迎することは明らかでした。その場合、政府に対する反発が天皇制を廃止する方向に向かうのではないかという懸念を政府は抱きました。
~圧倒的多数での可決~
当時の日本政府の顔ぶれを見れば、「マッカーサー草案」を心底理解して歓迎した人ばかりではなかったでしょう。しかし、政府は大局的見地から「マッカーサー草案」を受け入れて活かす道を選択し、その後は、内部での議論をし、総司令部と協議し、一院制を二院制としたり、最高裁判所に違憲立法審査権をもたせたりする変更を加えて、1946(昭和21)年3月に憲法のどこを改正するかを説明した「憲法改正草案要綱」を国民に対して発表しました。この要綱に対する国民の反応はおおむね好評だったと政府の調査にも記されています。
そして、衆議院の総選挙(このときから婦人参政権が認められています)をその年の4月に行い、政府が作成した憲法改正草案は、新しく選出された議員によって構成された衆議院に提案され審議が行われました。その結果、8月24日、421対8の圧倒的多数の賛成で可決されたのです。もちろん、衆議院では実質的な論戦があり、その過程で修正もされましたし、内容に賛成できない議員は最後まで反対を貫いて反対票を投じたのです。本当に総司令部が押しつけたのであれば、反対票を投じることもできなかったでしょうが、僅かとはいえ、反対した議員もいました。それ以外の大多数の議員たちは、自らの判断で賛成票を投じたのです(もともと大日本帝国憲法の改正手続にのっとっていますから、衆議院以外に枢密院と貴族院でも議論がなされ、修正も加えられて可決されています)。
~国民の歓迎と新しい時代への希望~
つまり、日本国憲法は、総司令部から促された案が出発点ではあったものの、国民に歓迎された内容であり、その後、国民の代表者が議論し賛成してつくったものなのです。
ずっと後になって、当時の総理大臣吉田茂は、「私は制定当時の責任者としての経験から、押しつけられたという点に、必ずしも全幅的に同意し難いものを覚えるのである。」として、政府案を作成する過程について、最初は総司令部からせかされ、内容に注文があったことを認めつつ、その後のやりとりは、総司令部は徹頭徹尾強圧的もしくは強制的というのではなかった、わが方の担当者の意見に十分耳を傾け、わが方の言分、主張に聴従した場合も少なくなかったと述べています(吉田茂 1957年「回想十年」新潮社)。
また、1946(昭和21)年2月に、東京帝国大学の総長の指示で法学部、経済学部、文学部の教授らが参加して学内に憲法研究委員会が設置されましたが、メンバーであった我妻栄は、「(新憲法の)内閣草案を受けたことは、大多数の委員にとって、大きな驚きであると同時に大きな喜びであった。当時極秘とされていたその出所(マッカーサー草案があったこと)について委員会は大体のことを知っていた。しかもなお、これを『押しつけられた不本意なもの』と考えた者は一人もいなかった。」と振り返っています(我妻栄 1962年「知られざる憲法討議―制定時における東京帝国大学憲法研究会報告書をめぐって」 世界1962年8月号 岩波書店)。
また、1946(昭和21)年11月17日には極東委員会から、1947(昭和22)年1月3日にはマッカーサーから、近い将来憲法改正を検討してもよい、検討してはどうかという提案がありました。しかし、論議は盛り上がらず、国民はこの憲法を受け入れて活かしてきました。
「押しつけられたから改憲しなくてはならない」「占領下の憲法だから改憲しなくてはならない」というのは、「よそから押し付けられたなんて、なんかいやだな」と感情に訴える誤った宣伝です。
このように、憲法のできるまでを見ると、日本の国民がいまの憲法を選び取り、そこに新しい時代の希望を託したことが分かります。